暇なので ~生ける屍にならない為に~

タイトル通り。アニメとかゲームとか、日々感じた事を取り留めなく吐き出すブログ。よろしく。

物事の優先順位は保守的であるべきか、マイナス要素を忌避する事は間違いか。

アニメを視聴する手段は色々あるけど、僕は昔ながらのテレビ録画を使ってる。VODも幾つか契約して併用はしてるけど、被って必要無くも何やかんやと録画してるね。もはや癖かも。でも来期?再来期?くらいで未視聴でも全消しする勢いだから、コレクションという認識も薄い。恐らく見れない状況ではないという安心や、何時でも見れる安定への備えだと思う。安定って否定しがちだけど本能的な大事だよね。プラスよりもマイナスを否定する姿勢は建設的ではないのは分かるけど、でもプラス状態の安寧を維持する安定すら否定してる節がある。これはいかん。むしろマイナスを理由にプラス見込みを否定する行為を肯定するべきだ。これを逆に建設的と考えるスタンス。まぁ好みの問題か。とりあえず同調圧力からは逃げるんだ。参考だけに留めて、自分の感覚を信じるのが正しい。…正解かは分からんけど。

先日の台風は地上波放送に軒並みテロップが付けた。地上波番組の枠外?に近々の気象情報や警報の類が並ぶのね。勿論アニメの放送にも付く。ノイズにならないわけではないけど、特に何かを感じて憤る程でも無い、気にしないレベルよ。ただ録画して視聴する層には、あまりに無駄な情報過ぎて、何だか笑えてくるのよね。リアルタイムで深夜アニメを見る人だけに向けての情報とか、随分と狭いところへ置きに来たなと。ぶっちゃけ何時でも最新情報が得られる時代に、というか公共放送を始めとした他の地上波放送ですらより詳細な情報を流しているのにも関わらず、こんな無駄な事に拘るのは何なのかとね。しかもCM中は情報枠が無くなるという。本当にアニメを見てる間に併せて、同時に天気予報が知りたいんじゃーって人向けに特化という事実よ。からかい上手の高木さん9話を見ながら、既に過ぎ去った台風の情報を挟みつつ、違う意味で苦笑してしまった。

テレビ局としては少しでも公共性を担保する為に、必要の無い情報を義務として添えている。必要の無い事が公共性を担保するわけないけど、要は無い事へのクレーム対策になっていて、結果的に公共性が無いと言われないからあるとしているだけ。公共性があるわけでないが無いと言えない様相は、これってつまり今回のタイトルになると思うのよ。つまりプラスよりもマイナスを注視する傾向。ある意味で無駄なマイナス対策を止める事で生まれるコストを、効率的にプラスに転化させるのではなく、あくまでマイナス>プラスな思考で運用する。そこから生まれる安定、継続性、将来性は絶対で否定出来ないわけよ。感情の余地が少ないシビアなビジネスの世界だからこそ説得力もある。
 
冒険は冒険したいからするのか?冒険せざるを得ないからするのか?冒険が正常でないのか?いやベンチャー企業は否定出来ないね、あくまで成功したベンチャー企業に限るけど。でも考えたら、多くは安定した大企業を目指すよね。もはや自明だったか。まぁ何だ、やっぱり好みの問題だな。安定9冒険1くらいを目指す、欲張った人生ならいいな~。

 

友達は作るモノか、出来るモノか。これって結構難しい問題だと思う。

まちカドまぞく9話を見て癒されながら、ふと昔感じた事を思い出した。シャミ子は所謂貧乏で、コメディながら所々で胸が痛くなるような描写を明るく挟んでいるわけだが、リアルなら虐め引籠りコンボも珍しく無いのだが、しかし彼女の善性が保たれる程に優しい世界なのね。そしてそんなイイ子には神様からプチ幸せが贈られるのさ、ほっこりな空気として。それがまた彼女の善性を維持するという、つまり善の循環ともいうべき仮想現実が構築されているのだ。その上澄み部分を癒しとして貪る視聴者は、レビュースターライトの麒麟が如く、節操無く感じなくもない。まぁこれだけなら普通の癒し系作品なのだけど、本作は何か一味違う非凡な何かを感じるのよね。
 
それが完成度を高めているのか、今回はタイトルの内容がふと過る。人との関係を維持するには、多かれ少なかれ手間が掛かる。これは感情的部分を除けば間違い無くて、例えば心の距離と体の距離が比例する故に遠距離恋愛が失敗するように、自然と関係が留まる事はまず無い。残念ながら作為的で労力要する関係は、自然体で無く不健全であるという見解もあり、変な足枷となってるが。自身に対する否定的見解を拒絶したい、虚栄心もあると思うわ。分かるけどね、結局は理想論よ。現実は互いを尊重する必要があるし、忘れられない為に関わりを続ける必要があるのだ。それは客観的に言って手間である。中には手間を手間と感じない、ある意味感性の故障や或いは未熟か、良い結果を生んでいる猛者もいるが、まぁ幼年を除いてレアでしょう。
 
では今回のシャミ子の努力は何か?無視させない事に拘って、ズルせず自力で努力して、しかも自己ベスト?まで更新したのは何か?というか桃自身が無視して無いと主張し、同じく徹夜の努力があったのは何のかと。友情とは互いに対応であることが前提であって、これは彼女達がより強く対等である事を、今よりも関係を進める事を望んだ結果にすぎない。これは手間にあたるのか?寂し過ぎるね。例え事実でも、些か哀れな見解と言わざる負えない。友達を作る為でなく、友達が出来る為の手間。友情は自然と形成されるが、しかしそれを意識することなく、維持する土壌を耕し続ける人達。これが本物というのか、眩しいな~。
 
友達がいないという事は、著しくネガティブな事だろう。受動的な姿勢を止めて、社交的な努力を続けた方が建設的だし、推奨される。ぶっちゃけ間違って無い。でもベストはやはり互いに意識しない努力であって、目指すべきよ。誰だって本物が欲しい。でも目指せば離れていくジレンマ。しかも相手も同じ感覚とは限らない。あ~、何て難しいんだ。こう考えるとやっぱり偶然しかないんだよな~。手間を踏んでる時点で、本物ではない、しかし偽物でもない、亜友達とも言うべきモノになっているような気がしてならない。もはや考えたら負け。
 
…もう一回見て癒されようっと。

影響される程に深く無く、思考ロックする程に閉鎖的でもない。チラ見する塩梅がベスト。

一つ目はコップクラフト9話のケイについて。ティラナへの差別表現にブチ切れるのに、何でスク水の見世物には無頓着なの?アホなの?ってツッコミをTLで見たのね。いや~、何だか関心したというかね、全く意識して無かった見解だったのよ。凄く「平等」な観点なんだな~って。勿論ケイの反応はティラナの、というか刑事である二人の、尊厳に一切関わらない些事として見ていたからであって。差別発言に眉を潜めた相棒の気持ちを代弁した状況でもあるよ。でもそれは勝手な解釈わけよ、他人なわけだしさ。アニメという俯瞰視点だからこそティラナの感情をくみ取れるのもあるし、平等に考えれば、羞恥心で参っていることも考慮に入れるべきかもとね。これに気付けないのが無神経なのか、又は神経質で空気読めないだけなのか、分からんけどキャラの鈍感特性を笑えないわ。
 
二つ目はキャロル&チューズデイ20話ね、昨日放送した回。ぶっちゃけ自分の評価は下の下で、いやこれ需要あるの?って印象だった。これで脚本が反トランプだったら笑う。変に政治モノと風呂敷広げるより、業界物として各人の音楽人生を魅せた方が面白いと思うのよね。逮捕された彼等は、変なイデオロギーを持ち出すのではなく、注目を集める為に手段を選ばない芸能活動として炎上を用いたと。その結果にやり過ぎて逮捕な末路の方が断然見所あると思うわ。駄目?まぁ自分の感覚だとこんな感じで、感想ツイートもそんな塩梅で批判的に書いたわけ。そしたら数時間前のTLの別の感想ツイートでさ、音楽見えなくなるから本筋に戻ろうよ?本筋の尊い百合にね!って冗談めかした内容を目撃よ。いやこれも噴いたわ。そうだよね、そっちを本質として見てる人もいるんだよね。まぁ冗談っぽく書かれてたけどさ、着眼点が素晴らしいなって思うよ。勿論個々人の感覚に由来するものだし、というか断然百合よりも音楽人生の方が面白くなると思うけど、思考を狭める理由にはならないわ。考えた上で却下するのと考えないのでは、天と地ほどの差があるよ。
 
つまり何というか、タイトルの通りというか、世の中の真理ここにありみたいな?賢しらな事を改めて実感したのでした。

アニメの供給過多?ただただ歓迎するよ。バイキングは大好きね。

週末アニメラッシュの感想をTwitterに書きまくるのね。5~6作品くらいかな?一通り見てからササっと書く場合もあれば、見てから都度書く事もある。おおよそで書いた後に字数を調整するのが手間だけど、グダグダと書きまくらない程良い枷になってるのではと、思わなくもない。不満があるとすればもっと別の根本的なところだけど、例えば週末に放送を纏めないで欲しいとか、そのくらいね。

 
昔からこうだっけ?こんな偏ってたか、視聴率的に傾けざる負えないのか、テレビ局の枠ってやっぱり週末の方が狙い目なのかな。確かテレビ局の枠って、長期で計画を立てで予約し、放送内容を複数で走らせ、時事に合わせて番組を決定するんだったか。運悪くそれらが全て転び、載せる番組が無くなると埋め合わせとして再放送を流すらしい。何故ここに再放送が?という場合は、ああ何かポシャったのかなと通ぶったり。
 
まぁこれはテレビ番組だけじゃないか。コンペなんて最たるものか、日の目を見なかった企画なんて無数よな。一消費者でも、背景は分からずも、そこに積まれた想いみたいなモノを漠然と感じられるじゃん。個人的に設定資料集の魅力ってソコだと思ってる。見当違いでも、所謂ボツな案に触れた時に、何か妄想するのよね。変化や紆余曲折に製作者の意思を感じるような。自分に余裕がある、暇な時だけ限定で。
 
娯楽ってそういう身勝手に、大衆的に消費されるのが正解だと思う。変にナイフとフォークを用いてテーブルマナーをクドクド語る前提は興覚めだね。芸術とか言い出したらホント終わり。下品で結構、マニアで結構。大衆が求める娯楽はそこにあるよ。不必要と断じるのは枯れたからか、ただ排除するのは滑稽ね。
 
独自路線で強いパトロンをゲットした芸術マンを否定する事は出来ない。大衆娯楽における特別な、異なる正解だと思う。パヤオとか勝ち組だし。問題はこんな太いパトロンをゲットした人は稀って事で、数多の芸術マンはどうするのか、変な事して資金をゲットするような、公金で現代芸術に耽るようなオチになりそう。芸術一本勝負な人ならご自由にどうぞとしか言えないけど、芸術で無いのは駄目とか、何と比べてるのか知らんけどとにかく下だとか、狂信的に叫ぶ人は滝にでも打たれてて下さい。
 
ヤバイね、マジで適当に書いちゃう。正しく駄文。しかし中々「暇」対策になるような、なってないような。思想書読んで頭が良くなったような気がするくらいの効果はあると信じたい。

「嫌いなモノを三つあげよ」即答出来る自分はカッコイイ。

そんな中二病を拗らせた幼少期のせいで、何気に今も変わらず同じ感覚だったり。辛い物事に対して、歳を重ねると引き出しが増え、対処能力が養われるので、まるでその分の忍耐力が備わったかの様に見える。全然違うよね。むしろ子供より耐えられなくなってる。子供の頃に感じた理不尽に対する「我慢」は人生最大のモノだったと、恐らく更新される事もなさそうだ。ただ人生を巧く回す、悪く言えば狡賢く誤魔化して生きてるってわけね。勿論何も悪く無い。推奨されるべきことだよ。


「暇・虫・子供」
自分の場合はコレ。食わず嫌いでは無いが、何処かネガティブな感情は残り続けるような、より近い感情で言えば「嫌い」よりも「苦手」と言える。僕にとって本ブログの主旨は、この一つめの「暇」への対策になるのかもしれない。ある程度の自由が利く人生であれば娯楽は数知れず、何かに従事したり耽ったりする事は難しくない。問題は加齢と慣れによって感受性が衰え、刺激に鈍感になる点。無意識に受動的な日々では退屈なのだ、簡単に「暇」となる。これは容易には抜け出せない。


これは動機や感情を動かせない受け手側の問題なのだ。新しい物事で解決を図るよう勧めるのはセールスだからであってね。中年のおっさんが若手に「最近何してるの?」「何か楽しい事ない?」なんて聞いても意味ないよ。そういう人の人生は推して知るべし。自分の趣味を語れるようになりましょう。まぁ気持ちは分かるけどね、「暇」はツライし。この類が許されるのは、若く可愛いく我儘な女の子だけ。面白い話をして喜ばせた後を求められるが故に。


能動的な行動として、感情の言語化がある。自分の中を右から左にただ流すのではなく、噛み砕く事で思考を整理し、再認識や新たな観点を付与するのだ。小難しい言葉である必要は無い。ただの感情の発露「うほぉ!いいねぇ!」だけでもいい。能動的な発信が感受性を刺激し人生を充実させるような、瞳にハイライトを乗せる事でキャラクターに命を灯すように、生ける屍を脱する事が出来るのだ。きっとたぶんおそらく。


ここ暫くTwitterでアニメの所感を掻き殴っていたのだけど、これが思いのほか自分に合っていたのか、予想外に新たな味わいをもたらしている。承認欲求を満たす効果とは別に、受容体の変化が実感出来るような。これは自分のように「暇」を患う甲斐性無しには文句無しにオススメだ。無感動な日々に鬱屈し、屍が如く退屈な人生は早々に終わらせるべきね。終活が早まるだけだし。


最初の記事を投稿してみましょう!と機械的に勧められたので、ブログを始めたを動機?の様なモノを、取り留めなく書いてみた。とにかく思った事を感情の赴くままに書こうと思う。気は使わないような、使うような、まぁトラブル無く楽しめたらこれ幸い。